2013年05月07日
戦乱の跡地に咲く 一番あやめ
日本のあやめ類の中で最も早く咲くことから、その名があるという「一初(いちはつ)」が、上御霊神社の境内で満開を迎えていました。
上御霊神社のご祭神は「八所御霊」といって、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、井上大皇后(光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(菅原道真か)、吉備大臣(吉備真備)の八柱を奉っています。
いずれも朝廷内の皇位継承などに関わる政争に巻き込まれて憤死した人々で、御霊神社は、その怨霊を慰めるために創建されたのです。当時の人々は、疫病や天災が続いたりすると、朝廷や為政者の政が悪く、その政争によって追われた人たちが、怨霊となって禍をもたらしていると考えていました。
怨霊を鎮めるため、御霊会などの鎮魂の祭りをやったり、没して後でも官位や諡号を追贈したり、その人のために神社や寺を建立したりしたのです。実は京都は怨霊鎮魂の寺社仏閣だらけです。祇園祭も御霊会が始まりですね。
また上御霊神社といえば、応仁の乱の発端「御霊合戦」があった地としても知られます。失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が神社境内の森で行われました。以後、室町幕府八代将軍足利義政の将軍後継問題も絡んで、京の街を焦土と化す戦乱が11年間続いたのです。今では貴重な文化財になったであろう建築物もこの時にほとんどが焼け落ちました。
5月18日に催される御霊祭は、京都でも最も古い祭りといわれ、約400年前に後陽成天皇御寄進の御牛車や御神輿3基なども、平安時代の装束に身を包んだ氏子たちによって渡御します。境内には17日と18日の2日間、露店も出て賑わいます。
上御霊神社のご祭神は「八所御霊」といって、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、井上大皇后(光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(菅原道真か)、吉備大臣(吉備真備)の八柱を奉っています。
いずれも朝廷内の皇位継承などに関わる政争に巻き込まれて憤死した人々で、御霊神社は、その怨霊を慰めるために創建されたのです。当時の人々は、疫病や天災が続いたりすると、朝廷や為政者の政が悪く、その政争によって追われた人たちが、怨霊となって禍をもたらしていると考えていました。
怨霊を鎮めるため、御霊会などの鎮魂の祭りをやったり、没して後でも官位や諡号を追贈したり、その人のために神社や寺を建立したりしたのです。実は京都は怨霊鎮魂の寺社仏閣だらけです。祇園祭も御霊会が始まりですね。
また上御霊神社といえば、応仁の乱の発端「御霊合戦」があった地としても知られます。失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が神社境内の森で行われました。以後、室町幕府八代将軍足利義政の将軍後継問題も絡んで、京の街を焦土と化す戦乱が11年間続いたのです。今では貴重な文化財になったであろう建築物もこの時にほとんどが焼け落ちました。
5月18日に催される御霊祭は、京都でも最も古い祭りといわれ、約400年前に後陽成天皇御寄進の御牛車や御神輿3基なども、平安時代の装束に身を包んだ氏子たちによって渡御します。境内には17日と18日の2日間、露店も出て賑わいます。
Posted by 京聯自動車観光部 篠田ほつう at 08:33│Comments(0)
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