2013年06月29日
大徳寺
大徳寺

大徳寺は、ご存知、臨済宗大徳寺派大本山です。山号を龍寶山(りゅうほうざん)といい、本尊は釈迦如来、鎌倉時代末期に大燈国師・宗峰妙超が開創しました。宗峰妙超は悟りを開いたあと20年間も五条河原で乞食行を続けたといいます。
花園天皇、後醍醐天皇と相次いで朝廷の帰依を受け、建武元年(1334年)には後醍醐天皇から、大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨が発せられました。
しかし、足利尊氏によって、後醍醐天皇が吉野に追われ、室町時代になると、大徳寺は幕府から疎んじられ、五山十刹から除かれ、在野的立場にある「林下」の道を歩むことになります。また応仁の乱で伽藍を焼失し、荒廃をしてしまいます。
中興の祖となったのがあの一休和尚(一休宗純)でした。南北朝の動乱が終結したときの北朝の天皇は後小松天皇でしたが、一休宗純は後小松天皇の後落胤といわれています。
一休和尚は、カラスの鳴き声を聞いて、悟りを開いたといわれますが、飲酒・肉食を行なったり、朱鞘の木刀を差して変な格好で街を歩きまわる、正月にドクロを掲げるなど、奇行も多い人物でした。それらの奇行は禅の精神を基に、当時の風習を批判したものとも言われます。
それ故に庶民の人気は高く、応仁の乱の後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、酬恩庵(一休寺)から、大徳寺に通うことになります。

一休に帰依していた人物は、能の金春禅竹(こんぱるぜんちく)や茶道創始者の村田珠光などがいました。一休が住持になったことで、堺の豪商はじめ、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受け、塔頭が寄進されたことによって、現在の大徳寺があります。大徳寺は茶の湯の世界と縁が深く、武野紹鴎、千利休、小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関わり、国宝の密庵(みったん)などすぐれた茶室も多く残されています。
京の人々からは「東福寺の伽藍面」「妙心寺の算盤面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」といわれました。
本能寺の変ののちには、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、総見院を建立、併せて寺領を寄進しました。以後、名だたる戦国武将たちがこぞって、塔頭を建立して隆盛を極めるにいたります。
江戸時代初めになると幕府の統制を受け、漬物のたくあんの考案者とも言われる名僧、沢庵宗彭が紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けましたが、三代将軍家光が沢庵に帰依するなど幕府との関係ものちに回復したといわれます。その後、寺運は栄え今日に至っています。
大徳寺は、ご存知、臨済宗大徳寺派大本山です。山号を龍寶山(りゅうほうざん)といい、本尊は釈迦如来、鎌倉時代末期に大燈国師・宗峰妙超が開創しました。宗峰妙超は悟りを開いたあと20年間も五条河原で乞食行を続けたといいます。
花園天皇、後醍醐天皇と相次いで朝廷の帰依を受け、建武元年(1334年)には後醍醐天皇から、大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨が発せられました。
しかし、足利尊氏によって、後醍醐天皇が吉野に追われ、室町時代になると、大徳寺は幕府から疎んじられ、五山十刹から除かれ、在野的立場にある「林下」の道を歩むことになります。また応仁の乱で伽藍を焼失し、荒廃をしてしまいます。
中興の祖となったのがあの一休和尚(一休宗純)でした。南北朝の動乱が終結したときの北朝の天皇は後小松天皇でしたが、一休宗純は後小松天皇の後落胤といわれています。
一休和尚は、カラスの鳴き声を聞いて、悟りを開いたといわれますが、飲酒・肉食を行なったり、朱鞘の木刀を差して変な格好で街を歩きまわる、正月にドクロを掲げるなど、奇行も多い人物でした。それらの奇行は禅の精神を基に、当時の風習を批判したものとも言われます。
それ故に庶民の人気は高く、応仁の乱の後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、酬恩庵(一休寺)から、大徳寺に通うことになります。
一休に帰依していた人物は、能の金春禅竹(こんぱるぜんちく)や茶道創始者の村田珠光などがいました。一休が住持になったことで、堺の豪商はじめ、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受け、塔頭が寄進されたことによって、現在の大徳寺があります。大徳寺は茶の湯の世界と縁が深く、武野紹鴎、千利休、小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関わり、国宝の密庵(みったん)などすぐれた茶室も多く残されています。
京の人々からは「東福寺の伽藍面」「妙心寺の算盤面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」といわれました。
本能寺の変ののちには、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、総見院を建立、併せて寺領を寄進しました。以後、名だたる戦国武将たちがこぞって、塔頭を建立して隆盛を極めるにいたります。
江戸時代初めになると幕府の統制を受け、漬物のたくあんの考案者とも言われる名僧、沢庵宗彭が紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けましたが、三代将軍家光が沢庵に帰依するなど幕府との関係ものちに回復したといわれます。その後、寺運は栄え今日に至っています。