祇園祭

京聯自動車観光部 篠田ほつう

2014年07月16日 09:09




現在は、美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、動く美術館とも例えられる祇園祭ですが、本来は、平城京、長岡京と続いた都に渦巻く怨霊の仕業を鎮めるために、牛頭天王を祀り開かれた祇園御霊会が始まりです。
 当時は、天子の治世の問題や政争で無念の内に没した人々の怨霊が、流行する疫病の原因と思われていたんですね。特に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王らの影響が大きかったと言います。
 祭礼を取り仕切るようになる八坂神社も、もとは祇園社と称しました。祭礼もまた、明治維新による神仏分離令で「祇園御霊会」から「祇園祭」に変更されました。
 京都祇園社の祭神の牛頭天王もまた、「織田信長が天下一統目前となったころ、信仰していたと言われる牛頭天王を祭神に変えた社が多かったので、牛頭天王は、実は古来からの祭神ではなかったんだ」といいがかりをつけられ、権現類と並んで徹底的に弾圧されました。
 天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に強制的に改組されたんですね。
 全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社も、素戔嗚(スサノオ)を祭神とする神社として強制的に再編されたました。




 さて、その牛頭天王ですが、「祇園牛頭天王御縁起」では……、
 本地仏は東方浄瑠璃界の教主薬師如来で、須弥山中腹にある「豊饒国」の武答天王の一人息子として姿を現した。三尺の牛頭をもち、赤い角もあった。
 王位を継承して牛頭天王を名乗り、后をむかえようとするものの、面容の怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになる。
 ある時、一羽の鳩の導きで大海に住む沙竭羅龍王の娘のもとへ案内される。
旅の途中、長者である弟の古単将来に宿所を求めたが、古単はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民将来は歓待して宿を貸し、粟飯をふるまった。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民にさずけ、蘇民は富貴の人となった。
 龍宮へ赴いた牛頭天王は、美しい婆利采女を娶り、八年を過ごすあいだに七男一女をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、古単への復讐を図った。古端の一族、僧兵たちは、ことごとく蹴り殺されたが、古単の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示したと記されています……。
 祇園祭の粽にある「蘇民将来之子孫也」には深い意味があるようです。もっとも諸説あります。牛頭天王も一説には新羅の神ではないかとの説もあるようですね。







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